昭和49年12月30日 朝の御理解
朝の御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
神様を信じて疑わない生活。それは楽じゃという事に繋がっておるのです。神様を信じて疑わないと。そういう信心を身に付けて行く修行をさせてもろうたら、信心が楽しい信心が愈々有り難いものになって来るです。いわゆる神様だけを頼ると言うか。神様を杖に。信心のギリギリのおかげはここだと思うです。神様を信じきっての生活。所謂お金に頼ったり物に頼ったり。又は人に頼ったり。そういう生き方からは決して、楽な信心楽しい信心、有り難い信心は生まれて来ません。
もう本当に木や竹は折れると仰る。金は曲がると。どんなに沢山な金があっても、どんなに素晴らしい友達を持っておっても。どんなに素晴らしい親孝行な息子を持っておっても。それは、持ってはならんという事じゃない。それは有り難い事なんだから。けれどもその金が無くなったらもう金も、とにかくある間だけである。もう自分の信頼し信じ合っておる友人があると言うても、その人が亡くなられたらお終いである。
どんなに親孝行の息子を持っておると言うても、いつどういう不時災難があるやら分からない。もう、本当の意味において頼りになるものというのは、あろうあるはずがない。あるものは只信じれれるものは、実を言うたら神様だけなのだけれども、その神様があまりにも偉大で。形にも見えなければ、声にもなっておらんのですから。それを言うなら、信じて疑わないで済む、いわゆる本当の意味においての信心生活が出ける様になる為には、どういう信心をさせて頂いたら良いか。
私はねお道の信心は、話を聞いて助かれる道と仰せられるが。どういう例えば難儀を感ずる時であっても。御理解を頂いて御教えを頂いて心がスッキリする、さっぱりする。言うならば、その都度つどに、心の中に開けるものがある。そういう私はおかげを頂き続けて行かなければいけないと思う。どんなに心配事があっても、御理解を頂いて心が開けて来る。心が開けて来るところから、おかげが伴うて来る。
そういう信心が繰り返されなければ。本当に神様の仰せ通りにさせて頂いたら間違いないという、いわゆる確信が生まれて来る。いわゆる神を杖につけば楽じゃと言う事は、確信の生活だとこう。そこでね、私はどういう信心をさせて頂くかと言うと。例えば今日明日でもう今年は終わり。すぐ正月、元日を明後日は迎える訳ですけれども。皆お正月の準備に、まあ家庭でそれぞれ大わらわだとこう思うんです。先ず正月には門松を建てて、注連縄を張って、お餅をついて。
言うならブリの一本も下げて。それからかずの子を買わせてもろうて、正月御節料理を作って。そうでなからなければ、正月らしくないといった様な事では、ここん所はおかげを受けられないです。ほれでもう無理をしてからかずの子も買わんならん、ブリも買わらんならん、するめ昆布も買わにゃならん。お花も正月花を生けなきゃいけない。そして言うなら、まあそれが楽に出ければね、越した事はありません。しちゃあならんのじゃない。例えば、そうしたいと思うけれども、出来ないという場合があります。
そこでです言うならば、神ながらな正月を頂かせて貰おうという気持ちになる事なんです。自分が演出した正月ではなくて。もう神ながらなもう言うなら自分なりの、自分の信心徳なりのお正月を迎えさせて貰おうと。神ながらなお正月である事を願う事です。それを思い掛けない所からお花を頂いた。思い掛けないとこからとても今年は数の子だんと思いよったら数の子が集まって来た。おかげで無理をせずに言うなら、お餅もつけたお雑煮も祝われる、そういう例えば正月を神ながらな正月だと思う。
そして今年は正月には普通で言うならば、あのあれも足りなかった、これも足りなかったと云う所は、まあだ自分の信心の欠けておる所だと悟らせて貰って。本当に自分の徳なり、自分の信心なりのお正月が迎えられて、初めて正月らしい気分を味わう事が出ける。無理算段をして演出をして、そして正月気分を味わおうと言った様な生き方からは、もう決して神を杖につけば楽じゃというものは生まれて来ない。
段々おかげを頂いて信心信心が分かって来る、信心が身に付いて来るとその信心に伴うたものがですちゃんと集まって来る。もう神様の働きの間違いないのには恐れ入ると。そういう生活が神を杖につけば楽じゃという生活なんです。無理してかずの子を買うて来た。無理してお餅をついた。無理して門松を建てた花を買って来たという中からは、言うならば決して神ながらな正月、いや神を杖につけば楽じゃと、言う様なものは生まれて来ません。そこでです正月だけの事ではない常日頃がです。
教えを頂き教えを守らせてもろうて、言うならスッキリとした心の状態で日々が過ごせれる信心生活。そういう生活がなされる。言うならば教えを聞いて、それを守らせて頂く生活。教えを頂き、守らせて頂く事が有り難いと分かり、楽しいと分かって来る信心でなからなければ、信心は向上致しません。おかげは頂かれても。私は信心が楽しゅうなるとと言う事は、教えを行じ守る事だと思う。教えを行じ守る所から、信心の楽しみ有り難さが生まれて来る。
そういう信心が出けて来ると、神ながらな日々、神ながらな生き方が出ける様になる。もう神様のおかげで、言うならばお正月が迎えられたという、お正月であって、初めて本当の正月らしい、有り難さも目出度さも生まれて来る。ひとっつも無理がない、神ながらな正月。為にはです、今日、今年の正月にはお餅もなかったと言う様な事があるかも分からない。もうとにかくかずの子なんかっていうものは、高値の花だという時もあるかも分からない。けれども、おかげでお餅がつけれる様になった。]おかげで、かずの子も買える様になった。おかげで正月の言うならば注連飾りもまたお花も買えた。
又はどっからか集まって来たという時に、初めて神ながらな正月。そしてそこに神様の一分一厘の間違いのない働きを感じる時に、初めて成程神を一心。神様だけに御すがりし、頼って行けば、この様に楽な有り難い日々が過ごせれるんだ。有り難い正月が迎えられるんだと云う事を体験しなければいけない。そういう私は体験を積み上げて行って初めて、神を杖につけば楽じゃと云う事が分かって来ると思う。
神様にお願いしておるけれども、あの人にも頼んどかにゃならん。お取次ぎを頂いておるけれども、あれこれと自分で才覚しなければならない。もちろんお繰り合わせを頂いて才覚を願うのですから。才覚が出ければ有り難い、出けなければ有り難くないと言った様な事では出けない。それが私の正月だ、それが私の信心だと頂かにゃいけん。今年はもうお餅がない、お雑煮がないから正月らしくないと云った様事じゃなくて。
これが私の正月だと分からせて貰う時にです。いよいよ精進しなければならん。来年だん本当にお餅がつけれる、正月を頂かなければならんと云う所に、いよいよ正月の教えを本気で頂き、本気で守らせて頂く、信心が身に付いて来る、楽しゅうなって来るんです。もう一時が万事にです、神様、言うならば無理のない、どんな場合でも自分の信心内の物、自分の徳なりの物。そういう時に、一番例えて言うならば不如意な時。しようと思うても出けない時、時ほどその味わいが味わえる時だと思うですね。
もう26~27年前の話でしょうか。最後に椛目の人が助かる様になるちょっと前頃に、親先生にお出でて頂いて、最後のまっその当時の宅祭りさせて頂いておる時であった。買おうと言うてもお金がない。それでも何とかしなければならない。そこで久留米に出らせて頂いた。別に商品があってその商品を売りに行くのなら。それを売ってそして帰りにはお供え物を買うて来るという事もあるでしょう。何もないそれでも久留米まで行って、まず櫛原の教会にお礼に出た。
そして何かそれこそよか事はないだろうかと、グルグル回った。何もないまたお参りをする、また櫛原までお参りをする。とうとうお賽銭も無くなってしまった。4回目ぐらいに、確かにお参りした時には、もうお賽銭が無くて、がつせて言うんですかね、商人がもっと昔はがつせて言いよった。財布の事です大きな財布の中にはその時分に、きっと色んな物を買うと証紙っていうものを貰いよったですね。証紙を貰いよった。その証紙が一枚入っておった。
だからその証紙をお賽銭箱の中にお供えした。それこそ庭の散り葉でも真持って供えれば、神が受け取ると仰るのだから。神様は決してただで参って来いとは仰ってないですね。そこでそれこそ庭の散り葉でもで良いのです。なか時は私はその証紙を、それこそお賽銭箱の前で、本当に相すいませんけれどもと言うて、お供えをさして頂く時にです。例えば千円のお賽銭が投げられる、入れられる様になってもです。この証紙一枚をお供えする時の気持ちを忘れるなという意味の事を頂いた。
ああ皆さんお賽銭でん何でん、投げながらポーンとジャンジャン入れる。あげな事じゃ出けん。押し頂いて十円なら十円のお賽銭が、こうして例えばお供えが出来るという事は、本当有り難い事なんだ。そして当時久留米にありました、その今の西鉄のあの近所に、ずっと闇市場がありました。そこまでまいりましたら、そこのいつも昔取引しよったおばさんが、大坪さんこげなモンがあるから売ってくれんかちこう言われる。
あぁおかげ頂いたと思いましたですね。繊維物なんです。もうそのおばさん売りきらんでおる訳です。そこでそれを心辺りの所持って行ったら、すぐ商いが出けた。もう本当におかげで言うならばお供えも、まあ十分な事出けんけれども、まっ買わなければならない物は買った。帰らせて頂いておったら、どこからお野菜を頂いておる。ここからという風にまあ色々集まっておった。
ところがお鏡さんがない。そしたら以前麦生に私の従兄弟がおりましたが。その結婚式に呼ばれたら何ちゅうですか。配るもん頂いた。ざっしょう餅ちゅうですか。このくらいばっかりの、紅白の中にあんこの入っとる餅なんです。それとそれからそのまっお御馳走がですね、いわゆる御祝儀のお御馳走がこう、重箱に詰めたのとを頂いた。神様がこれでお鏡さんは出けた。あんこの入ったお鏡ていう事は初めて。
丁度善導寺の教会の何かお月次祭か何かある時に、船端に川魚を取る漁師さんがおられました。そこへいつも川の魚を頼んで、頼みに行くのです。それで貰い行かにゃいかんから、そこへ取りに行った時にちょっと待って下さい、川までその生かしてあるやつをと取りに行くからと言うてお茶を汲まれた。そのお茶を汲まれた時のお茶桶がね、このくらいばっかりのはやが小匹お皿についとった。まあ漁師さんの家のお茶うけっちゃそうですよ。川魚がお茶うけだった。こちらも勿論魚も好きませんから。
その時思うた。はあ明日の宅祭りの川の物はこれで揃うたとこう思うた。それで帰り掛けに、これは折角だからと言うて私があの、それこそ竹ん皮に包んで貰って、それば頂いて帰って。それが明くる日の言うならば川の物、海山川の草々の物と言われるから。お餅も揃うた、川のもんも揃うた。お野菜色んな物もあっちこっちから、もうそん時の私は宅祭りは、もうみかんなんかは大盛台に出すぐらいあった。
ところがさあ実際にお参りが四十何人ありました。北野の方達が私の話を聞いて、時々椛目に来よりなさる時分でした。それで妹と家内となら御直会などげんしますか。御直会はね、それこそその当時は茶粥でしたから、お茶粥さんの一杯ずつでも出せりゃそれで良いて私が。はあ明日御直会じゃけんで御飯作っとかんなん、お菜も作っとかんなんちゅう事は決してない。もう本当に、例えば恥かしいなら恥かしいなり。もう信心の有り難さいっぱいでお祭りを仕えさせて貰おうと言うのですから。
それでも矢張りあのかぼちゃやら、かぼちゃの天ぷらやらがこうやってまるで、ちょうど海老の天ぷらの様に。忘れもしません、久富先生の奥さんのお母さんが、こんな大きな洗濯桶、あの盥の様な物にいっぱい、野菜サラダを作って来て下さった。もう何やらかにやらでお粥さんでもない。やはり固い御飯も出させて貰いお神酒さんも一献ずつじゃあるけども出させて貰い。と言うて親先生には別にどうとかと思うておったら、前の日に頂いておった御祝儀のまあお御馳走のそれを。
ちょうど親先生の一人前だけは、お膳を作る事が出けた。四十何人の人に腹いっぱい頂いて貰うという事はないけれども、まあお供えしてあるそのみかんとか、他のまあ色んな物で、とにかく御直会が済んだ。そういう私はおかげを頂いて、神様の間違いなさを分からせて貰う。それがこちらの信心が段々出けて来れば来る程です。ちゃんと立派なお鏡さんも付ける様になり。川の物と言やあ立派な鯉のお供えも出ける様になり。
山の物と言えば海の物と言えばと云う様にです。ちゃんと足ろうたおかげが頂ける様になって初めて、神を杖につけば楽じゃと言う事が、いえるおかげが受けられるのです。言うなら、人間心を使うて、私は宅祭りをする様な事ではね、ここんところで申します様な、神を杖につけば楽じゃという、言うなら確信に満ちた楽じゃというおかげになって来ないです。その様に神様は、間違いがないのです。
だから言わばこの57節。金の杖をつけば曲がる、もう金を杖につかんで済む、いやつかんで済むじゃない。もう金やらもう全然当てにしない木や竹は折れる。どんなに気丈な人であっても、次々難儀な事が起こって来るともう自信を失うと言うでしょうが。もう言うなら木が折れた訳です。人でもです、もうこの人は信頼しきっておるとだから、この人は例えば親か息子があればです、その息子にすがる頼っとるような事で、ならその息子がコロッと先に死んだらどうするか。
そういうものを頼ってはならない。人物金そういう物に頼らないで、ただ神様だけを頼りすがって行くという生き方。それでもならおかげというものはです。例えば今宅祭りの中に現れておる様に。縋って縋って縋り抜いてです。なら久留米の何がしかのお金を儲けさせて貰う事が出けた。そのお金で買わなければならないお供え物は買うた。さああっちこっちから頂くお供えで、もうそれこそ御神前はうずたかい大盛台を出さなければならない様なおかげを頂いた。
御直会にはもう茶粥さんでも良いと思いよったけれども、固い白い御飯が出せた。親先生には、お一人分ではあるけれども、膳部が出けた。そういうおかげを頂いてです。いわゆる、神様の間違いなさというものをです、分からせて貰う生活。それがだんだん進んで行けば進んで行く程、もっと立派な見事なものが身に付いて来る。例えば正月にかずの子がなくてもです。
もうこれば、かずの子と思うてと頂きゃいいじゃない。それこそお餅がないなら、ついた餅より心餅で行きゃいいじゃないか。そういう中から餅がつける様になり、かずの子が買える様になり、ブリブリとしたブリの一本も下げる様な、おかげが頂ける様になって来て、初めて神を杖につけば楽じゃと云う事が分かる。これは何十年信心してもね、人間心の強い、例えば人間心の強いと言うか。もうとにかく神様に頼りながら、人にも頼り物にも頼ると云う様な生き方からは。
この今日の御理解を神意を分かる事も、体験する事も出けません。間違いない言うなら働きと言えばです。昨日皆さん外に街燈の時計のお供えがあった。三日掛りで昨日ようやくあれは何と60キロもあるんだそうです。ですからあのクレーン車が来ましてね。クレーン車で上げて取り付けがありました。昨日ちょうど昼食をしようと思いよる時に出来あがって、初めてのスイッチを私に入れてくれて言うて言うて見えましたから。
あの私は初めてあの電気の機械の入っとるあの、そこの元便所のあったとこの部屋に入ったが、大きな機械が座ってますね色々。でそこにあの取り付けてあります。スイッチが。でそれを押しましたからそれこそ一分一分、一分一分あの数時が変わって行く。あれはまだ日本に何台もない。九州では初めてだそうです。あれをあちらの方から持って下りられる時に職人さん達が、あのここが御本部じゃろうからと言うて、金光様にいっちょあの、お参りして来ようかち言うて参った。
そして今から合楽教会に時計の据え付けに行きよりますて言うて、お届けしたら金光様がそれは結構ですと仰った。そういう時計があそこへ言うならば座った。それこそもう一秒間の狂いもなく、あれが回って行く事でしょう。そこで私共がねあれを私は、昨日お供えがあった時、神様にお届けをさせて頂きましたら。見るだけでなく頂く時計と頂きました。見るだけではない頂く時計だと。皆さんが朝の御祈念一生懸命。はっ今日は何分間遅うなったが、もう何分間まで分かる。
そういう時にはっそういう時にはっちょこっと間違うとったなと。5分間狂うておったらはっ5分間間違うておったなと、そういう頂く時計なんです。今日はおかげで十分、5時の御祈念に間に合う、4時の御祈念に間に合うと。はぁおかげを頂いたと頂く時計なんです、時計のお供えが来る度に、この正確な信心を、神様は求めておられる。私の信心は何とはなしに、外部よりも問題は人が助かる事さえ出来ればという信心なんです。その為には自分自身が助からなきゃならん。
この内容を大事にするという信心。所が今度外にそれこそあそこを通る沢山の自動車の方達がです。遠くから合楽の教会の前まで来ると時計が分かる。矢張り色んな方が便利をされるだろう。信者の皆さんだけではない。皆が便利をなさる。ですから家の方だけに間違いないのではなくて、外側の方にも間違いのない信心を、これからは極めて行かなければならんという、神様の言うならば、まっお知らせとも頂かなければならんだろうとこう思うのです。言うならば信心のない人でも、信心のある人でもです。
言うならばはぁ成程金光様の御信心は素晴らしい、立派だと言うて貰える様な私共にお取立て頂かにゃいかんです。信心しよる者ん同士だけは、はぁあの人は立派だと言うておっても、信心のない側の人がです。から例えて言うなら、後ろ指でも指される様な事であってはならない。内も外も、私は正確なキチッとした信心が出ける様な、キチッとした信心生活が出ける様な、おかげを頂かなければならない。
恐らく来年は、あの時計の様な外にある、あの時計の様な生き方の信心を神様が求めておられるんだと、私は思いました。そういう例えばおかげを頂く為にです、今日の御理解などをです。神を杖につけば楽じゃという、そこに絞って神ながらな信心生活をさせて頂く。自分に応じた生活をさせて貰う。そこに与えられて初めて神様の思いの深さが分かって来る、有り難さが倍加して来る。自分の信心の程度について来る所のおかげをです。百の物がつかなければ。
例えばお正月らしくないというものがです。七十の場合があっても良かろう、八十の場合があっても良かろう。もう二十足りん所だと勤めて行く所から。百のおかげが頂ける様になって初めて、神様のおかげで正月が迎えられたと云う事になるのだ。そういうおかげを頂いて参っておりますとです。それこそ百だけではない十二分な勿体無い程しの、有り余る様な言うならばお正月も出けれる様になるだろう。
愈々有り難い勿体無い生活が出ける。そういう生活を神を杖につけば楽じゃと仰るのは、本当にそういうおかげを楽じゃと言うんだと思うのです。だからこれは大変難しいのです難しい事なのですけれども。矢張り目指す所はそこでなからにゃならん為には教えをね、教えを頂いて守る事が楽しい様な信心にならなければ。ただおかげを頂かんならんから、毎日参りよると云う様な信心からは、生まれて来ないと云う事です。
どうぞ。